■緋勇沙希《その弐》

 ピンポーンッ

「龍麻ー」

 ピンポーンッ

「いないのかー」

 ピンポンピンポンピンポンピンポーンッ

「勝手に入っちまうぞー」

 思う様に呼び鈴を押していた京一が、ドアノブを回す。後ろの葵が何か言おうとしたが、その前にドアが開き、四人がちょっと驚く。

「・・・・・誰もいねーのか?」

「無用心だね・・・・」

 冗談でドアノブを回した京一と、すぐ横にいる小蒔がちょっと呆れた声を出す。後ろの醍醐と葵も同様だ。

「しかし、風邪でもひいて休んでいるのかと思ったが、そうでもないらしいな」

「どうする? 勝手に上がっちまうか?」

「駄目よ、京一くん」

 すでに玄関に入ってる京一を、葵が止める。

 四人は、今日学校を休んだ龍麻に、プリントを届けに来たのだ。

「とりあえず、メモを添えてプリントを残していきましょう」

「・・・そうだな。龍麻じゃなく、沙希ちゃんと鉢合わせになっちまうのも、キツいしな・・・」

「へー、どうして?」

 背後から小蒔が聞いてくる。

「第一に怖いんだよ。初対面にチンピラどもの巻き添えで吹っ飛ばされ、次に龍麻が子供扱いのやられ方。そんでこの前の花見の時には、殺気だけで俺たちは、身動き一つとれなくなっただろ? 人間か、あの人は?」

「タイプじゃないと?」

「・・・・綺麗なのは認めるけどなァ、本性っていうか、真骨頂っていうか・・・・、あれを最初に刷り込まれたら、どうしてもなァ・・・」

「あら? そうなの? それは残念ねェ、京一くん」

 ビキッ!

 京一が石化したように、硬直した。小蒔の声が、途中から別の女性の声に変わっていた。

 ―――そういえば、小蒔は俺の横にいなかったか?―――

 身体が動かないので視線だけを動かすと、確かに小蒔は横にいた。なんだか顔色が青い。

 ―――じゃあ、俺の後ろから聞こえていた、この声は―――

 ギギギッ、と硬い音がなってそうなガチガチの動きで上体をひねり後ろを見ると、満面の笑みな沙希が立っていた。

「どうだった? 私の変声術、大したもんでしょ」

 その笑みのまま歩み寄り、京一の肩に手を置く。

「お姉さん、悲しいなァ。京一くんみたいな可愛い子に避けられてたなんて・・・」

「い、いや・・・そそ、それは・・・」

 京一がドモりながら弁明しようとする。言葉をかんでいるのは恐怖のせいではない。

 沙希の手が、万力のような握力で京一の肩を掴んでいたからだ。脂汗がにじんでくるほどに痛い。

「ま、いいわ。入んなさい」

「え、でも・・・」

「この前言ったでしょ? あんたたちと話がしてみたいの。ジュースぐらいあるし、お茶菓子は約束どおり出すわよ」

 

「ごめんねー。龍麻、今、ベッドの上で昏睡状態だから」

 京一が、さっそく口をつけたジュースを思わず噴出してしまう。葵が龍麻のことを聞いたら、この答えだ。

「こ、昏睡!?」

「朝稽古に付き合わせたら、あいつ結構、実力あがっててね。おもわず、本気で打ちこんじゃった♪ あ、心配しないで今夜にでも気づくハズだから」

 楽しそうだ。心のそこから楽しそうだ。

「綺麗に決まったからねェ。どう、決まったかというと――――」

「え―――」

 ドドンッ!

 いきなり沙希が京一を引っ張りあげ、次の瞬間、胴と顎に各一撃ずつ加えていた。手の甲をみぞおちのあたりに鋭く打ちこみ、身体がくの字に折れたところに、肘で顎をかち上げる、という連撃を一瞬で行う、第三者にしてみれば、見事というしかない光景だった。

 ――――もちろん、当の京一にとっては、それどころではなかったが。

 しかも、悪いことに大分手加減してあったようだ。意識は遠のく寸前で戻ってきてしまい、腹部に受けた地獄の苦しみだけが残る。

「どう効くでしょ?」

「――――――」

 京一は答えない。答えられるわけが無く、ただうずくまって、唸ることもできずにヒクヒクと痙攣している。

(怒ってる怒ってる―――)

(しっかり根に持ってるな)

 葵が治癒にかかっている京一を見ながら、小蒔と醍醐は薄情にも、『下手なことを言わなくてよかった』と思うだけだった。

 

「龍麻が私を苦手にしてる訳?」

 沙希がキョトンとする。

 ほとんど家具を置いていない広いリビングの中央で葵たちと沙希がしばらく談話していると、なんとか復活してきた京一が、この前龍麻に聞いた沙希に対する「貸し」のことを聞いていた。

「いや、龍麻が珍しくシリアスになってたから、気になってな」

「あ、そうだね。龍麻くんがあんな表情するのって見たこと無いなァ・・・」

「・・・・・・・」

「あの・・・・沙希さん」

 沈黙している沙希の様子に、葵が心配そうに声をかける。

「もし、言いにくいことだったのなら・・・・・」

「あ、ああ、そうだな。人にはそれぞれに過去があるのだから――――」

 醍醐の言葉が切れる。いきなり沙希が立ちあがったからだ。

 そのままリビングから出て行く。ちょっと気まずい空気が四人の間に流れた。

「・・・・・・・? 何してんの、京一?」

「・・・・あ? いや、なんでもねェよ」

 京一は腕で身体をガードしているかのような格好で目を閉じていた。

 どうやら、すでに沙希の突発的な行動に対する反射行動が形作られてしまっているらしい。

「聞いちゃいけなかったのかな?」

「そうね・・・。もしかしたら、とてもつらいことがあったのかも・・・・」

 トトトトッ

 沙希が戻ってきた。と、数種類のお菓子を乗せた大きい皿と、プラスチックのカゴに缶ジュースをいくつも入れて四人と自分の前に置く。

 カシュッ!

 清涼飲料水の缶を開け、床に置く。

「さてッ、どこから話そうかな? ちょっと長くなるわよ」

(語る気マンマンだ――――――ッ!!)

 四人の心が一つになった。

 

 

 7年前の夏―――明日香学園

「じゃあねー、沙希」

「うん、じゃねー」

 制服姿の少女―――18歳の沙希―――が、友人に向かって手を振り、家に向かって歩き出す。

「ウィーッ、明日から夏休み〜♪」

 スキップでもしそうな軽い足取りだ。

「でも、明日から父さんに付き合っての山篭り二週間〜〜〜・・・・・」

 いきなりズーンと重い足取りになった。

「なんで、あたしゃ、こんな汗臭い人生を選んじゃってるかな〜」

 ため息。ふと、自分の手が拳を握っていることに気づく。

(・・・・・もう一年か・・・。王龍(ワンロン)と出会って・・・別れてから)

 

「ワンロンって誰ですか?」

 小蒔の質問が、沙希の話を止めた。

「ん? ああ。上海に行ってたときに知り合った人よ」

「シャンハイ? 修学旅行か何か?」

「ううん、夏休み利用して、武者修業」

「・・・・・・・・・・・・・・」

「イイ男でねー。ま、相手にされなかったけど」

 四人は、「女子高生だてらに海外で武者修業♪」な沙希に絶句しているのだが、気づいてない様子でウットリとした表情で話している。

「ま、それは置いといて。そのうち、小学校から帰ってきた龍麻と、偶然一緒になったのよ。しかも、龍麻、ボロボロでねェ」

「ボロボロ? 龍麻くん、怪我でもしてたんですか?」

「うん。中学生とケンカしたって言ってた」

 沙希の言葉に、四人がギョッとする。

「中学生とッ!?」

「なんでまたッ」

「あの子、昔イジメられっ子だったのよ。今の龍麻しか知らないあなたたちには想像できないかも知れないけど、あの頃のあの子、ムッチャ暗い子だったからねー。イジメッ子連中に目ェつけられてたのよ」

「龍麻が、暗い小学生だった・・・?」

 京一が首をひねる。葵たちも想像してみるが、あまりイメージが固まらない。出てくるのは、眠そうなんだか幸せなんだか判らない笑顔の龍麻の顔だけだ。

「と言っても、暗くなったキッカケも、そのイジメッ子等なんだけどね。どっかから、龍麻が養子だってこと聞いたらしくてね」

「?」

「どうして、それがイジメに関係してくるんですか?」

 小蒔と葵が?マークを浮かべる。その様子に、沙希の方は苦笑を浮かべていた。

「私もそこらへんよくわかんないけどね、そーいうオバカチャンたちには十分に難癖つける理由になるみたいよ。んだけど、龍麻って結構強いのよ。まあ、小学生レベルで、ってことだけど。そんで、多人数でいじめるつもりが、逆に凹まされた連中が、これまたたちの悪い「高校生お兄ちゃんズ」を呼んで龍麻をボコったらしいわ」

 

 

「えらく、ボロボロねェ〜」

「・・・・・・・」

 苦笑を浮かべる沙希に、龍麻は言葉を返さない。

「ンでも、やり返したんでしょ? どうだった?」

「・・・・・・脛蹴っ飛ばして、一人泣かした。そしたら、残り三人が凄い顔で囲んできたから、逃げてきた」

 ボソリと呟くように、淡々と返事をする。

「それでこそ、アタシの弟♪ 逃げるにしても一発は入れとかないとねェ」

 沙希が龍麻の頭を「イイ子、イイ子」と楽しそうに撫でる。が、龍麻はそれを払いのけ、歩調を早くする。

「・・・・『沙希サン』には関係無い」

 ボソリと呟いて、それっきり黙りこくる。沙希は、今度は、かなりさびしそうな苦笑を浮かべ、その後ろを歩いた。

(・・・イジメが始まってからよねェ。アイツがあたしたちのことを名前で呼ぶようになったのは・・・・。龍麻、知らないだろうけどね・・・・、父さん、物陰で泣いてたよ。あんたに『漣麻(れんま)サン』って言われたとき)

 沙希は、その時の状況を思い浮かべる。龍麻が寝た後に、押入れの中で泣いている父親を見て、沙希は―――大爆笑していた。

({『放任主義』を主張していた父さんが、一番寂しがってるんだもんねェ・・・・・・アレ?」

 いつのまにか、龍麻がかなり先行していた。道の曲がり角に姿が消える。

「アッチャッチャ―――と?」

 駆け足で曲がり角を曲がる。と、曲がり角から少し離れたところで、龍麻が四人の高校生に囲まれていた。全員が、「これぞ不良だ!」とでも主張しているかのような風体だ。

「・・・・・・・・」

 睨みあげる龍麻のまわりで、不良たちは下卑た笑みを浮かべている。

「お久しぶりー、坊や。といっても、さっきバイバイしたばっかだけどねェ」

「坊や、ヒドイなァ。遊んであげるって言ってるのに、僕たちの友達に怪我させて逃げちゃうんだもん」

「あー、痛ェ痛ェ。こりゃ骨が折れてるなー」

 不良の一人が、片足でピョンピョン跳ねてる。どう見ても、怪我しているようには見えない。

 どうやら、この連中が、「高校生お兄ちゃんズ」らしい。小学校のイジメッ子たちに連絡でもとって、龍麻の通学路で待ち伏せをしていたのだろう。

「坊や、こういう時は慰謝料ってモンを払わないといけないんだよ?」

「適当な理由つけて、親にお金もらってきてほしいんだよねェ〜」

「あ・・・、そうだそうだ。君は親がいないんだったか・・・・」

 おそらく弟から聞いているのだろうが、どういう風に聞いているのか、龍麻に顔を近づける不良の顔は、ますます下卑たものになっていた。

「ッ!!」

「じゃあ、今の君の保護者の人に―――」

 親がいない―――

 不良のその台詞に、龍麻の表情が一変した。だが、龍麻のその様子に気づく前に、不良の言葉が途切れる。

 ―――龍麻の頬を掠めるように繰り出された蹴りによって、無理矢理。

「なッ―――」

 冗談みたいな吹っ飛び方で、はるか後方の電柱に激突した仲間の姿に、不良たちが絶句している。視線を元に戻すと、まだ蹴りを繰り出した姿勢のままでいる沙希の姿があった。

「な、なんだテメェ!」

 不良たちが困惑した表情で、今度は沙希を囲む。沙希はゆっくりと振り上げていた蹴り脚を下ろす。

「―――この子の保護者よ」

 不適な笑み。同時に、不良たちを見下すような笑みだ。

「こ、このアマッ!」

「お、俺たちをバカにしてやがんのかッ!? おお、コラッ!」 

 不良たちがジリジリと沙希との距離を縮めている。勇ましく威嚇するように(しているつもりで)声をあげてるが、思いっきり腰がひけてる。

「どーしたのー? こんなか弱い乙女を怖がってるのー? あーやだやだ、カッコばっかつけてて、小学生くらいしか脅せない不良ってのは、最低ってよばれる人種の一つよねー? ってか、それでカッコつけてるつもりなのォ。はっきり言ってダサいわね?」

 むちゃくちゃ陳腐な挑発である。しかし、そのレベルで十分だったようで、不良たちが叫びだか奇声だかわからない大声をあげながら、沙希に飛びかかった。

「シッ!」

 襲いかかってきた不良たちの間をスルリと抜け、一人に拳を打ちこむ。

 肝臓打ち。地獄の苦しみ。しかも気を失わない程度の生かさず殺さずな手加減具合である。

「なッ!」

 残りの不良の一人は、驚きと共に、倒れた不良と同レベルの苦しみを味わうことになる。

 常人には消えたとしか思えない沙希の動きについていけず、その掌が自分の鳩尾のあたりに押し付けられているのを呆然と見ていた。それも一瞬のことだったが。

 ズドンッ!!

 人の攻撃によるものとは思えない音とともに、衝撃が不良の身体を貫く。やはり気を失うことなく、くの字に身体を折ったまま地面に倒れこみ、ヒクヒクと痙攣していた。

「・・・・そういえば、あんたは骨が折れてるんだったけ?」

「ヒッ!?」

 2人が瞬く間に倒され、地獄の苦しみを受けているのを目の当たりにした最後の不良は、逃げようとしたが無駄だった。沙希と視線が合うと、身体がまったく動かなくなる。「蛇に睨まれた蛙」という言葉を身をもって体験していた。

「右足かァ・・・・じゃあ、左足♪」

 ズバンッ!

 鞭のように鋭くしなるようなローキックで、不良の身体が見事に半回転する。

「―――痛ェェッ! 痛ェェよぉ〜! 骨が、骨が折れたァッ〜〜〜」

「うわ、ダサ・・・。折れるほど蹴っちゃいないわよ」

「ヒッ」

 すぐ側で沙希が仁王立ちし、不良はおびえきった瞳で、しかし後退ることもできずに見上げていた。

 そして、さらに不良は恐怖する。見下ろす沙希が、一瞬だが、泣く子も黙るどころか大人が泣き出しそうなほどの凄絶な笑みを浮かべたからだ。

「もも、もうそいつには手をださねェよ〜。だ、だから、も、もう許してくれェ〜」

「・・・・いくわよ、龍麻。ん? どうしたの、ポカンとして」

 もともとこれ以上するつもりもながったが、不良の様子に完全に呆れかえった沙希が、龍麻が呆然とした表情で自分を見ていることに気づいた。

「・・・あ、そうか。人を倒すところなんて、見せたことなかったわね。どう、見なおした?」

「・・・・・・・・」

 龍麻の表情がもとに戻り、いきなり駆け出し、次の曲がり角に消えて行った。

「・・・・・難しいわねェ、あの子は」

 今日何度目かの苦笑を浮かべ、沙希は龍麻を追って歩き出した。

 

 翌日―――とある山中

「―――よし、完成だ!」

 杭を地面に打ちこんでいた龍麻の義父―――緋勇 漣麻が、立ちあがり、額の汗を拭った。

 山間にある川の側に、テントを張っていた。

「久しぶりねー、こうやって家族でキャンプなんて・・・、でもパパはすぐ行っちゃうのよねェ」

 多少恨みがましい目で、龍麻の義母―――緋勇 咲弥(さくや)が漣麻を睨む。

「う・・・」

「スケジュールを調整するために・・・、愛する家族とのふれあいのために・・・、ただでさえキツい仕事をさらに殺人的なものにしてこなしてきたというのに、強くなることがなによりの楽しみであるパパは、いってしまうのね・・・・」

「しょ、しょうがないだろう。私の生きがいだ・・・」

 むちゃくちゃ情けない表情だ。

「そ、それでは、私は行くぞ」

「はい、イッテラッシャ〜イ」

 いきなり、コロッと笑顔に変わる。そんな妻の様子に漣麻はガクッと肩を落としていた。

「あたしは、明日、母さんが帰った後に合流するから」

「ああ・・・・」

 トボトボといった感じで、漣麻は川を囲うように茂る森の中に消えて行った。

「さて、あたしと龍麻は薪をとってくるね」

「ええ、気をつけてね」

「・・・・・・」

 

「薪を拾いましょ〜♪ どんどん拾いましょ〜♪ たくさん集めて火をつけりゃ〜♪ 山の夜に家族の団欒の灯りが出来ますよ〜♪」

 即興のわけのわからない唄を口ずさみながら、沙希は薪になりそうな落ち枝を拾っている。龍麻は龍麻で、義姉の様子を無視しているような感じで黙って枝を拾っていた。

「フッフフーン♪」

 しばらくすると、歌詞が思いつかなくなったらしい。ちょっと調子っぱずれな鼻歌になっていた。

 ギュッ。

 ツタを数本束ねたロープで薪を一まとめに括る。

「龍麻ー・・・・・・アレ?」

 いつのまにか龍麻がいなくなっていた。

「アッチャ〜、唄に夢中になってて離れてくのに気づかなかったかー・・・・こういった所に慣れてないあの子じゃ、迷うわね」

 ヤレヤレと呟いて、沙希が歩き出す。常人には絶対わからないような痕跡をたどって、龍麻を追い始めた。

「――――!」

 結構離れたみたいねー、などと思いながら歩いていた沙希の表情が、凍りついた。追っていた龍麻の痕跡に重なるように、別種の痕跡を見出した。人より遥かに巨大な獣の痕跡。

 次の瞬間、沙希が駆け出していた。

 

「ハァッ! ハァッ!」

 龍麻は走っていた。小学生とは思えない速度と見のこなしで、木々の間を縫うように全力で駆けていた。だが、その表情はゆがんでおり、すでに限界であることは、誰がみても明白だ。だが、それを見る者はいない。助けてくれる人はいない。もしいたとしても、助けてくれるかは疑問だ。

 後ろからは獣の唸り声が、一定の距離から聞こえてくる。 その獣は、その鈍重そうな巨躯からは想像もできないほどの速度で走ることができた。人の全速力の倍、一般道を走る車と同等の速度だ。

 龍麻は、その獣が木を上ることができることを知識として知っていたので、木を登って避難することはしなかった。獣の駆ける速さのことも知ってはいたが、逃げずにはいられなかった。混乱して立ち尽さなかっただけでも、大したことではあった。

 ただ、龍麻は知らなかった。その獣、いや人を襲う可能性がある山の動物のほとんどに『背を向けて逃げ出すと追う習性がある』ということを。さらに悪いことに、機嫌でも悪かったのだろう。人の存在を感じれば、たいていは自分からその場を離れることが多いその獣に、龍麻を逃がす意思はなさそうだった。

 心臓が今にも止まるのではないかと思えるほど、胸が痛い。それでも龍麻は走ることを止めない。脚を止めてしまえば、獣の膂力になぶられ、そして―――

「――――!?」

 木々の群れが途切れた。次の瞬間、龍麻は倒れこむようにして勢いを殺し、足を止めていた。

「・・・・・・・・・」

 絶句する。森を抜けたそこは、断崖だった。あと一歩気づくのが遅かったらそのまま空中へダイブしていたかもしれない。

 断崖は直角ではないが、ほとんどそれに近い。覗きこめば、高所恐怖症でなくとも眩暈がしそうなほど遥か下方に森があった。

 こんな状況でなければ雄大な景色であっただろう場所だが、それを楽しむ余裕など微塵もない龍麻は立ちあがり、走り出した。だが、森に再び入る前にその足が止まる。一度止まってしまったことで、疲労が一気に襲いかかり、立つのがやっとなほど足がガクガクと震えていた。

 グルルルゥ・・・

「!?」

 獣の唸り声に、龍麻が顔をあげる。

 すでにその獣―――熊は走っていなかった。追いかけ、疲れさせた獲物に、ゆっくりと近づいている。

「あ・・・あ・・・」

 龍麻はすでに身体も動かすこともできない。昨日の、沙希にのされた不良のように、まったく身体が思考を無視していた。足はガクガクと震える、ただ身体を危うく支えるだけのものとなっている。

 グオオオオッ!

 重い咆哮とともに、熊が後ろ足で立ちあがる。まだ熊との距離があるというのに、龍麻は見上げていた。三メートル以上はありそうな巨躯が、倒れこむようにして龍麻に近づき、丸太のような太い腕を振り下ろしてきた。

 ドンッ!

「えッ―――」

 龍麻は、その一瞬何が起こったかわからなかった。肩のあたりに衝撃を受けたと思うと、熊が視界から消えていた。次いで、視界に飛びこんできた光景に目を見開く。

「―――ぐッ!」

 沙希だ。森から飛び出し、龍麻を突き飛ばした沙希は、そのまま熊の重い一撃を受け、小石のように吹っ飛ばされていた。地面に叩きつけられ、その勢いのままに転がる。

「!?」

 身体が崖から飛び出していた。すんでのところで崖の端を掴み、上体を乗り上げる。熊の一撃を受けた背中に激痛が走った。

「ぐうう・・・龍麻ッ!」

「!」

 沙希の叫びで、崖の端で思考が凍り付いていた龍麻の瞳に、光が戻る。

「逃げなさいッ! 早くッ!」

 背中の激痛を無視し、熊が襲いかかる前に跳ねあがる。

「う、うん―――」

 立ちあがった龍麻の膝が、カクンと下がる。事態の急変に頭が忘れていたが、龍麻の身体は走るどころか、立つこともままならない状態なのだ。

そして、そのまま後ろに倒れた。いや、倒れる先に地面はなかった。

「―――あァ」

 呆けたような声を残して、龍麻の身体がすぐに斜面に身体を打ちつけられ、宙に放り出された。

「あの馬鹿ッ」

 トンッ

 沙希が、今度は自らの意思で崖から跳んだ。

 ほとんど真ッ逆さまに落下しているのと変わらないような姿勢で、直角に近い崖の斜面を蹴り、滑空するようにスレスレを跳ぶ。

「シィィィィッ!」

 龍麻を追いついたところで、姿勢を反転させ、ブレーキをかけながら斜面を滑走する。龍麻は再び斜面を激突する寸前に、沙希に抱き止められた。

 下方の森は、崖から少し離れている。自分の跳躍なら、森まで届くと、沙希は判断した。

(このまま速度を殺してから、森へ―――)

 ガッ!

 次の瞬間、沙希がバランスを崩し、足が斜面から離れていた。わずかな凹凸に引っかかり、沙希の絶妙な姿勢制御はたやすく破られた。

「――――」

 姿勢を立てなおせるタイミングじゃない。沙希は龍麻と身体を入れ替え、斜面に叩きつけられた。

「かはッ!」

 肺の中の空気が一気に吐き出された。身体の中から、何かが砕ける嫌な音が響く。

「――――姉ちゃん!!」

 腕の中の龍麻の声が、遠のきかけた沙希の意識を無理矢理戻し、激痛を一瞬で忘れさせた。

 斜面を蹴る。2人の身体が弧を描きながら崖から離れ、茂る木々の上空へと跳んだ。

 常人なら幾度も斜面を跳ねながら、なすすべなく地面に叩きつけられていた状況で、それだけのことを為してから沙希は心の中で叫んだ。

―――死ぬもんかッ! 死なせるもんかッ!―――

 

「・・・・・・・・・・・・・う・・・」

 目を覚まし、しばらく倒れたまま、木々の狭間から暗んできた空を見上げていた沙希が、バッと上体を跳ね起こす。

「ウッギャアアッ―――ヒグッ!」

 背中に激痛が走り、そして息が止まるほどの痛みが全身を襲った。

「かッ・・・くゥゥ〜・・・・・・・・・・・・・・」

 たっぷり三分間ほど耐え、涙目になりながら立ちあがる。すぐ横に龍麻が倒れていた。

「・・・・・ふう」

 あちこち切り傷だらけだが、目立った外傷はない。そのかわり、沙希の方は全身重症だらけだ。

「肋骨がかなりイッてる・・・。左腕も折れてるみたいだし・・・・。ヒビもあわせたら、凄いことになるわね。内臓がイカれなかったのは、不幸中の幸いかな・・・・」

 見上げると、鬱蒼とした枝々の隙間から、2人が落ちた崖が見えた。幸運にも、最後の跳躍と、木の幹と幹の間を抜けて無数の枝をクッションによって、落下速度が激減し、かろうじて生き延びれた。それでも沙希が《人ならざる力》の持ち主であり、それによる常人離れした生命力がなければ、龍麻はともかく、沙希が助かることはなかっただろう。

「・・・・・う、うん」

「あら?・・・起きた?」

「あ・・・・姉ちゃん」

 ボーッとした感じで、龍麻が身体を起こす。身体を覆ういくつもの痛みに顔をしかめるが、沙希の姿をまともに見た瞬間、それはぶっ飛んだ。

「大丈夫よ。あんたとは鍛え方が違うんだから」

 満身創痍の身体とは対照的に、沙希が浮かべた笑顔は、日常のそれと変わらなかった。無邪気な、そして温かい笑顔。

「それにしても、数ヶ月振りよねー。あんたに『姉ちゃん』って呼ばれるの」

「あ・・・・」

 龍麻が真っ赤な顔になって俯く。多少意地の悪い笑みになった沙希が、龍麻の頭をポンッと軽く叩いた。

「あんたはさ、なんでもそつ無くこなすけど、時々とても不器用になる子よね。薄々気づいてたんでしょ?」

 沙希が龍麻の隣に腰を下ろす。龍麻は俯けていた顔をさらに落とし、小さく頷く。

「でも、周りの連中がそのことで騒ぎ出して、混乱しちゃったんだよね?」

「・・・・・うん」

「馬鹿な子」

 龍麻の身体を引き寄せ、自分の肩に頭を乗せる。

「・・・・今度、他人行儀な呼び方したら、ぶん殴るからね? けっこうキツいのよ、あんたにそう呼ばれるのは」

「うん・・・」

 2人の周りに穏やかな空気が流れる。沙希はちょっと涙目だ。久々の姉弟の時間に、嬉しさ感極まってたりする。

「――――!」

 しかし、その穏やかな空気は、すぐに引き裂かれた。沙希の感覚が、別種の気配が近づいてくるのを捕らえていた。

「どうしたの?」

「・・・・・・・」

 ズシャッ!

「・・・・ッ!」

「しつこいわね・・・・」

 薄闇の中から、先ほどの熊が現れた。

『グルウウウッ!』

「・・・・・・」

 ユラリと沙希が立ちあがり、熊の視線をさえぎるように、龍麻の前に立った。そこで、龍麻が目を見開く。

「姉ちゃん・・・・背中・・・」

 沙希の背中には、巨大な傷があった。抉るように刻まれた三本の斜傷。

「もう少し、寝てなさい」

 パンッ!

「あ・・・・」

 呆然とする龍麻の額に掌があてられる。と、軽い衝撃とともに、龍麻の意識が落ちた。

「・・・・・・・いい加減ムカついてるのよ、あたしは」

『グルゥ?』

「あたしの玉の肌は、このとおりボロボロを通り越してズッタズタッ! この後、病院にでも担ぎ込まれるだろうから、久々の一家団欒(だたし父親不在)はオジャンッ! なにより! あたしの愛しい愛しい弟を怖がらせて! 人に恨みでもあるのか、ただ機嫌が悪かったのか、ンな事はこの際どーでもいいわ!」

 ビシィッ、と人差し指を向ける。言葉が通じるはずはないのに、その不可思議な迫力に、熊が後退った。

「かくなる上は、あんたは熊鍋決定! 保存しといて、快復祝いに食っちゃる!」

 ドンッ!

 沙希がロケットのような加速で熊に接近する。熊は咆哮をあげながら、その丸太のような豪腕を振るった。

「フッ!」

 鋭く息を吐き、沙希がさらに加速する。熊の腕をかいくぐり、その巨躯と密着した。

「――――ウオリャアアアアアッ!!」

 沙希の咆哮とともに、無数の拳撃と蹴りが熊に打ちこまれる。そして、数百キロはある熊の巨躯が、人の生み出した破壊力に蹂躙され、宙を舞った。

 ザンッ!

 落ちてくる熊の落下地点には、すでに沙希が立っていた。

「ズアッ!!」

 ドゴンッ!!

 衝撃音が森に響いた。数分の一の体格しかもたないヒトの拳が、その巨躯をふっ飛ばしていた。

「アタシが、どんな状態だろうと、龍麻に手ェ出そうとした時点で、あんたが鍋でコトコト煮られる運命は決まってたのよ」

 やな運命だ。

 沙希の前方から重々しい激突音。そして、沙希の意識はそこで途切れ、ゆっくりと地面に倒れて行った。

 

 

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』

 沙希の話は、そこで一旦止まった。アクションあり、ほのぼのあり、でもやっぱりアクション主体の昔話に、四人は長く長く絶句していた。

「・・・・で、その後は?」

「異変に気づいた父さんが、私たちを見つけてくれたわ。残念なことに、父さんは熊鍋のことまでは、頭がまわらなかったらしくてね、熊は放っぽったまま。他の動物たちの血肉になったんじゃないかな?」

(人間じゃねェ)

(とんでもない人だ)

(カッコイーけど、恐ッ!)

(凄い・・・っていっていいのかしら?)

「なに? 皆して猛獣でも見るような目をして?」

 一斉に四人が首を振る。

「・・・・ま、いいわ。とりあえず、龍麻の負い目ってのは、そのことでしょうね。一番大きかった背中の傷は残っちゃったし、何より、あの後からだったからね。あの子が強くなりたがったのは」

 

 深夜―――龍麻の寝室

「・・・・・・・・・」

 龍麻が横になっているベッドの側に、沙希が立っていた。昼間はウンウン唸っていた龍麻だが、今は安らかな寝顔だ。

「・・・・・誰にも話してないことがあるの」

 優しい、だけどどこか寂しげな笑みを浮かべ、聞き手のいない言葉を紡ぐ。

「あの時、意識を失った後、夢を見たのよ。会った事のない、今のあんたと同じくらいの年の女の子と話す夢。開くことのない瞼の奥で全てを見ているような不思議な娘の夢」

 沙希は龍麻に背を向け、部屋の入り口に向かう。

「陰と陽が巡り、収束するその先で、私とあなたの《宿星》も終着するらしいわ。その時、私はあんたの横で、肩を並べているのか・・・・それとも」

 音も無くドアを開き、一切の気配も消して寝室から出る。そしてドアを閉める間際、先は呟いた。

「あんたの前に立ち、拳を向けているのか・・・・・・」

 静寂の中、沙希の心の揺らぎを移したかのように、ドアを閉めた音が、わずかに場を支配した。

りたーん 夢妖へ