《最強なる姉》

■2月中旬―――緋勇家早朝■

「ごちそーさん」

 牛乳を飲み干し、コップを置いた龍麻が立ち上がる。

「はい、おそまつさん」

 パンの最後の欠片を飲み込んだ沙希が、自分の食器を洗面台に持っていく。

「姉ちゃん、俺、時間ヤバいから、洗っといて」

「はいはい。ああ、龍麻。あんた、最近帰り遅いけど、なにやってんの?」

「稽古」

「ああ、そう。東京行くのに、関係あんの?」

「うん。じゃ、行ってくる」

「行ってらっしゃい」

 部屋に戻り、準備を終えて二階から降りてきた龍麻が廊下を歩いていると、ドアが半開きになっている部屋から、キーを叩く音が聞こえてくる。

「母さん、俺、今日も遅くなるから飯先に食べてていいよッつーか、少しはまともに飯食わなきゃ身体に悪いぞ」

「は〜い・・・」

 ドアの隙間から、まったく生気のない返事が返ってくる。龍麻の母、咲弥(さくや)は、小説家である。〆切が近いらしく、ここのところ、ほとんど自室のワープロの前から離れていない。昨日の夜食が乗っかっていた皿の横に缶詰の空や、ドリンクの空が積まれているあたりに、悲壮感が漂っていた。

 手早く食器洗いを追えた沙希が、その部屋のドアを開ける。

「・・・・・母さん、朝飯どーする?」

「いらな〜い・・・」

 悲壮感たっぷりの声で返されて、沙希が苦笑する。

「ちゃんと食べないと、体壊すよ?」

「姉弟して同じこと言わないで〜・・・・」

 一区切りついたのか、咲弥が手を止め椅子ごと、部屋の片付けをしている沙希の方を向いた。歳の割に若く見られる美人で有名なのだが、今は目の下に隈をつくる、くたびれた女性になっていた。

「何日寝てないのよ」

「ん〜・・・・、四日かな〜・・・・」

「その間に食事はどれくらいとったっけ?」

「ん〜・・・・・・・・・、3回かな・・・・・」

「よく死なないね、母さん・・・・・」

 なにやらゾッとしながら、ゴミ分けしたビニ袋らをもって、廊下に出る。

「そーだ、沙希ちゃ〜ん・・・・」

「何?」

「この間、東京に行くって言ってた龍麻ちゃんと、パパが大喧嘩したでしょ? なんで、東京にいくんだっけェ・・・・」

「知んない。あたし聞いてないし」

「そっか・・・・、まあ、龍麻ちゃんなら、アマゾンの奥地に放っぽいても大丈夫そうよね?」

「母さん、さらっとヒドいこといってる・・・・・」

 沙希は、さっきとは別の意味でゾッとしていた。

■同日夕方―――拳武館道場■

 ドサッ。

 いつも通り、稽古のために道場にあがった龍麻が鞄を床に落とす。

「・・・・姉ちゃん」

「あ、来たわね」

 なにやら、語尾にハートマークでも付きそうな口調だ。なんだか知らないが機嫌がいいようである。

「何で、ここにいんの?」

「バイトの帰りに、この近く寄ってね。鳴瀧さんトコの道場が近くにあるの思い出したら、なんとなくアンタがここにいるんじゃないかなァって、ネ?」

「ネ?、じゃなくてさ・・・・・。なんで、道着なんだ?」

 そこで、沙希が道着を着ていることに気付く。真っ赤で、背中に龍の刺繍が施してある、かなり派手なものだ。

「事情はいくらか鳴瀧さんに聞いたわ。稽古つけたげる」

 沙希が構えをとる。笑みのまま、瞳に危険な光を宿した沙希の表情は、一種凄絶なものであった。

「・・・・・・・」

 龍麻が制服の上着を剥ぎ取るように脱ぎ捨て、同じように構えをとった。莎草と闘っているときより、命の危険を感じている。

 沙希がこの表情をした時、龍麻が無事だったことはない。

「いくわよ」

 スゥ・・・

 音もなく、長く鋭い踏み込みで、沙希が龍麻との間合いをなくす。最小動作で繰り出された沙希の掌打を、龍麻は左腕で受けとめた。

 クンッ

 掌打を打ち込んだ右掌を龍麻の腕の下に潜りこませ、そのまま引き寄せながら、上に撥ね上げる。そして、左掌を龍麻のがら空きになった脇腹につけた。

「破ァッ!」

「―――」

 鋭い踏み込みが生んだ衝撃が、沙希の身体を駆け上り、氣とともに左掌に収束・放出される。それを受けた龍麻は、道場の壁に叩きつけられた。

「くッ!」

 さらに床に叩きつけられた龍麻が、バッと跳ね起きた。沙希の発剄を、瞬間身体を捻ることで直撃を避けたが、かなり効いている。

 ギュンッ!

 すでに、沙希が龍麻の懐にもぐり込んでいる。そして間髪いれずに龍星脚を繰り出した。

「ちぃッ!」

 鋭い蹴り上げが、龍麻の頬をかすめる。僅かに身体を傾げ、顎への一撃をかわした龍麻は、半歩踏み込み、発剄を放った。

 トトンッ!

 軽いフットワークとともに、沙希が龍麻から離れていた。龍麻がカウンターで放った発剄は、完全に的を失い、床を破壊する。

「発剄くらいはできるようになってるみたいね・・・。でも、まだまだ甘いわよ」

「・・・・・・」

 龍麻の服の肩の部分がブスブスと煙を吹いている。龍麻の発剄をかわすときに、肩に当てた掌から発した炎氣のためだ。

「今日は、あんたにあたしの持ってる技を全て見せたげる。本気で打ち込むから、死ぬんじゃないわよ」

 またも、語尾にハートマークでもつきそうな口調だが、内容はそれほど軽いもんじゃなかった。

           ・

           ・

           ・

「デェアッ!」

「ぐッ!」

 その後、幾重にも技と技を打ち合わせた龍麻と沙希が離れた。離れた、というより、沙希が繰り出した瞬間連撃《八雲》に吹っ飛ばされていた。

なんとか致命的な一撃は受けていないが、すでにボロボロの体だ。対して沙希の方は、まったくの無傷。息も乱していなかった。

「・・・・・なんともならんだろうな」

 途中から道場に入ってきていた鳴瀧が呟く。組手中の龍麻は、沙希からまったく気を外せず、鳴瀧の存在に気付いていない。

「今の龍麻君の実力では、彼女に一手いれるだけでも、至難の技だろう」

 今も龍麻は、この1ヶ月半で得た経験の全てを沙希にぶつけてはいるが、かわされ捌かれ、かすりもしなかった。常に先の先、後の先をとられ、手痛い一撃をたたき込まれている。まだ攻勢に出られる身体であること自体、驚くべきことだ。

「彼女の《力》は、人の氣を視ること。相手の体内外の氣を視認することによって、相手の動きや思考を察することができる」

「りゃああッ!」

 ガッ!

 龍星脚を放とうとした龍麻が硬直する。蹴りを放つ前に、沙希の右足が龍麻の蹴り足を抑えていた。

「ヤッ!」

 そして、沙希の龍星脚が龍麻の顎にクリーンヒットする。

「―――」

 身体を撥ね上げられた龍麻が、そのまま仰向けに床に叩きつけられる。

「・・・・・・・鳴瀧さん、道場、勝手に借りてます」

「ああ・・・」

 弟に向けるものとは思えない冷めた目をしていた沙希が、鳴瀧の方を向いたとたん、人のよさそうな笑みを浮かべていた。

「昼に君が現われたときに、嫌な予感はしていたんだがね・・・・、まさかその日のうちに、龍麻君をボロボロにしようとは・・・・」

「ひどい言われようですねェ。これでも愛する弟を思っての行動――――」

 バネ仕掛けの人形のように、一挙動で跳ね起きた龍麻が、沙希の懐にもぐり込んでいた。

「――――破ッ!」

 沙希の腹に当てた右掌から、発剄を放つ。虚をつき、密着状態で放った渾身の一撃だ。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 発剄をまともにくらった沙希は、微動だにせず、龍麻を見下ろしていた。龍麻の手にはまるで分厚いタイヤでも殴りつけたような感触が残っている。

「練氣法―――金剛。硬気功とかいわれるものと同じ、体内で高めた氣の圧力で、衝撃を吸収・拡散させるものよ」

 トンッ

 沙希が龍麻を突き放し、自らも後ろに飛び退いて間合いをとった。

 特異な呼吸法で、体内の氣が活性化していく。

「稽古の最後よ。とっておきのを、見せてあげる!」

 炎氣へと変じた氣が、沙希の身体を覆い尽くす。その姿は、まるで炎を纏った巨鳥のようだった。

「沙希くん! それは――――」

 技の正体に気付いた鳴瀧が止めに入る。が、すでに遅かった。

「秘拳―――――鳳凰!!」

           ・

           ・

           ・

「やれやれ・・・・、君は変らんようだな」

 鳴瀧は怒る気もわかず、ただ苦笑しながらそう言った。

「なにがです?」

「・・・目的のために手段を選ばないどころか、手段のために目的を忘れるところが、だ」

「忘れてませんよォ。弟のことを信じてるから無茶できるんじゃないですか」

「・・・・・無茶したいがために、弟のことを信じることにしたんじゃないのかね?」

 鳴瀧が沙希から視線を外す。その視線の先には、燦燦たる状況の道場の様子があった。

 まるで抉られたように亀裂が走っている木張りの床。そして、その亀裂の先には大穴が空いた壁がある。

 そして、亀裂から少しだけ離れたところには、龍麻が倒れていた。

「まだ稽古をはじめて1ヶ月半しかたたん弟に、君が秘拳まで放つとは思いもしなかったよ。龍麻君の常人離れした反射神経がなければ、死んでいたかもしれんぞ」

「鳴瀧さん、けっこうな金持ちなんだから、弁償しろなんて言わないでくださいよ」

「・・・・・他に心配することはないのかね?・・・・・、なぜ、ここまでの無茶を?」

「・・・・・・・春には、あの子は、あたしたちの元から離れます」

 沙希の表情が変る。少し寂しげな笑顔。

「ホントは大事な弟を手放したくないんですけどね・・・・、『勝手にやるし、勝手にやらせる』があたしの家族の信条ですから」

 無茶な信条である。

「なにか、《視えた》のかね?」

「・・・・・・あたしの瞳は、人の氣を視ます。人と異なる氣の流れを生まれ持つ人間は、大きな運命の流れの中にある者」

 沙希が龍麻の側にしゃがみ、ボロボロの割に安らかな寝顔の弟の頭を撫でた。

「この子の進む運命は、とても大きなもの・・・・。多分、叔父さん達と同じくらい、もしかしたらそれ以上の・・・・」

 立ちあがった沙希の顔は、すでに笑みだった。龍麻と似た、子供のような無邪気な笑顔。

「だったら、多少ムチャクチャでも、導いてやるのが、姉の仕事ってもんでしょうッ?」

「フッ・・・」

 沙希の言葉と笑顔に、やっと苦笑じゃない笑みを浮かべる。

(君は良い姉を持ったものだ。龍麻く―――)

 ドガッ!

「ほらッ、ちゃっちゃと起きなさいッ! 帰るわよッ!」

「〜〜〜〜〜!!」

 沙希に思いっきり蹴り起こされ、再発した体中の痛みに、龍麻が声にならない悲鳴で、のた打ち回っている。

「それじゃ、鳴瀧さん。またちょくちょく、こいつの稽古観にくるとおもいますんで、茶菓子でも用意しといてくださいネ」

「・・・・・・・」

 弟の体を引きずるように道場から出ていく沙希の姿を見ることもなく、鳴瀧は顔を手で覆い、深く溜息をついていた。

■三月―――緋勇家早朝■

「そんじゃ、行ってくるよ」

「行ってらっしゃい」

 まるで、友人の家にでも遊びにいくような感じでの言葉を、友人の家にでも遊びに行こうとしている弟に向けるような言葉で返す。

「もちょっと、感慨深げに、何か言えない?」

「何言うってのよ?」

「体に気をつけて、とか?」

「子供がかかっとく病気以外、あんたが風邪ひいたりしてるとこ見たことないんだけど?」

「ご飯はちゃんと食べなさい、とか?」

「一人で飯もちゃんととれないなら、飢え死にしなさい」

「東京は怖い人がいっぱいいるって話だから、気をつけなさい、とか?」

「あんた、良い人悪い人を見極める目が異常に発達してんだから、そーいう人に会ったら遠慮せずに、ぶちのめしときなさい」

「・・・・・・・・・・・・・行ってくるよ」

 とりあえず、何かいろんなものを諦めて、ただそう言った。

「母さーんッ、行ってくるねーッ」

「は〜〜い〜〜・・・・・・・・」

 以前より、数段悲壮感ありまくりの返事を聞いて、なぜか安心した顔で龍麻が頷いている。

「父さんは?」

「まだスネてる」

「ああ、ここ二週間ほど、姿見ないなァとおもってたんだ」

「もう顔を見るのも嫌だとかいってたからねェ〜」

 親子姉弟の会話じゃねェ。

「ま、元気でね。今度帰ってくるときは、彼女でも連れてきなさい。まあ、あんたの性格に疲れずについていける女の子がいたらの話だけど」

「あいよ。姉ちゃんも、今度こそ1ヶ月以上もつような頑丈な彼氏つくっとけ。まあ、照れ隠しに突き出すあんたの拳に耐えられる男がいるとは思えんけどな」

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 にこやかな笑顔で向かい合ってる二人。だが、沙希の笑顔は、大地が鳴動しそうなほどの怒りが込められた凄絶な微笑みだった。

「しばらく会えないんだから、もう一手、稽古つけたげようか?」

 その日、御近所の方々は爆裂音やら破壊音で目を醒ましたとかしないとか・・・・・。

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